台南教会の歷史を読んで

 

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村山盛敦(大阪豐中教会牧師)

《基督教世界》3443號 1987年4月10日.,,p.2;《壹葉通訊》125 1987年7月


(1987年) 2月はじめ、神戶にいる母村山みよ(92才)から、一通の手紙のコピ一が送られて来た。ボストンの賴永祥さんからのもので、ガリ版刷りの<日本メソジスト台南寿町教會の歷史>(《壹葉通訊》47 1985年5月)も入つていた。

1936年春武生で小学生三年になり級長になつたばかりの私は、父盛春牧師の転任で台南に移るのが、残念でたまらなかった。小学校を出たばかりの長男をかしらに子供六人を引きつれての大移動は壯觀そのものであった。

寿町教會の前に劉青雲さんの大邸宅があり、長女慶理、長男改造、次男革新、三男逸民たちがいた。私たちの方は盛男(戰死) 、盛昭(大阪女学院副院長),、盛敦(豐中教会牧師)、郁子(大阪女学院講師)、盛嗣(神戶イエス団教会牧師)、盛忠(阿倍野教会牧師) で彼等と同年代 であった。

私は革新と同級で劉さんの庭にあった大きなレンブ(蓮霧)やリユウガン(龍眼)の木の下でよく遊んだ。革新のおじいちいあんが孫たちのためにと飴だまをかくしていたが、そっと盗んだのがみつかり、とんで逃げた時のおそろしさを今でも忘れない。

手紙の賴永祥さんは慶理さんの夫で、1987年1月27日の日付で、次のように書いてあった。 「岳母劉貞の書いた台南寿町教会の歷史をおくります。岳母去年11月ここで米寿の祝いをもちましたが、今は台南に歸つています。5月 か6月かにまたここへ来ることになりましよう。私と慶理はボストンにおちついて、いつの間にか15年たちました. 私はハ一ヴァ一ド大学ハ一ヴァ一ド燕京圖書館に勤務しています」。

そして劉貞さんの書いた歷史のはしがきも賴さんが書いている。

岳母の書かれた日本メソジスト台南寿町教会の歷史をお手許にお送りします。岳父劉青雲は同志社中学を經て慶応義塾大学に進学、東京滞在中は靈南坂教会に出入し、そして小崎弘道牧師によって受洗、したがって組合教会系統ででした。一方岳母本目貞は牛込袋町メソジスト教会で幼兒洗礼をうけ、そして青山学院女子高等部と專門部に学び、遺愛女学校と青山学院女子高等部で短期間ながら教鞭をとったことをみても純然たるメソジスト系統でした 。

結婚して台南に定居してから夫婦ともども組合教会とメソジスト教会布教工作には隨分と力になりました。武本喜代蔵牧師(組合)が台南に伝道の折りは台南の母屋にとまられ、若き岳父は太鼓をたたいて宣伝につとめたともきいています。原忠雄(組合)藤田一市(メソジスト) 兩牧師巡迴伝道もよく劉宅を本拠にしていました。井上慶一牧師が寿町教会を設立するに当つて夫婦の協力はいうまでもありません。 村山盛春.戒能団平兩牧師とひきつかれたこの教会が終戰を前にして結束、でも歴史の一駒としてある程度の記録はのこしておきたいと思います。お気付きのことがございましたら、是非御教示下さる様お願いします。

父盛春牧師は1936年4月から3年間、台南で牧会したが、その頃の台湾キリスト教会事情を、鄭兒玉さんは(台南神学院教授,同志社比春寮で一緒だった)アジアキリスト教史(1)で書いている。

1931年は台灣のキリスト教会にとつて日本植民地当局との關係で、友好關係がくずれる曲り角の年である。

この年(1931年)3月、南部長老教会が南部大会を組織した時にも一一日本植民地政策促進特に台灣人に對する教育差別に対する抵抗のための大会一一依然として霧社(日本支配に対する山地系台灣人の反亂)における日本軍の残逆行為がおこなわれていた。この時期に、台南における英國宣教師会は、最大關心事として、霧社の大虐殺をロンドンに報告している。4月に英國宣教師会は、台南長老教中学校の生徒に、神社に參拜させるようにという日本の要求を拒否した。五ケ月後、日本帝國主義は満州への侵略を始めた。日本の國家主義は着実に強化され、西洋化の潮流を壓倒した。

話をもとにもどそう。劉貞さんの歷史によると、1932年台北に日本メソジスト教会が設立され、藤田一市牧師が日本から派遣され、藤田牧師は月1回、台南を訪問し、散在する信徒と集会を持ち、1934年7月4日、日本メソジスト台南寿町教会を設立した。

1936年春、私たちは父母と共に武生から台南に移つたが、この教会が設立2年目であつたとは、今度はじめて知つた。

母は、暑さに弱い特異体質で台南に行くことをちゆうちょしたが、はたせるかな寝込んでしまい、入院.手術を繰返した。風呂場で一人、「かあちやん、死んだらいや」とメソメソ泣いていたことを思い出す。一年後、長男と父を台南に残して、私たち子供五人は、母の故鄉金澤に引きあげた。

劉貞さんは、歷史の中で次のように記錄している。

「1936年(昭和11年)春,村山盛春牧師が來任、夫人と六人のお子さんを連れての御來任でした。氣候にも馴れず、その上に夫人は健康体ではあられなかつたためか、屡屡病に倒れ、新樓病院にも度度入院されました。教勢の方は牧師の努力にもかかわらず、この時おとろえを始め、礼拝者数も少なくなりましたが、でも各集会には出席者20名前後を数える事が出来ました。村山牧師任内に洗礼を受けた人々は、、昭和11年11月20日及び昭和12年12月25日に、大人小児合計19人を数えました。昭和12年夫人は子供5人を連れて帰日され、牧師と長男(盛男さん)が台南に残られました。一家二分された状態では伝道はなかなかむずかしく、昭和14年(1939年)に牧師と長男は日本内地に帰られました。後でこの長男盛男さんは太平洋戦争で戦死され、真に心が痛みます」。

その後、1941年4月、戒能団平牧師が台南に來任、礼拝も劉青雲宅に移された。1943年1月, 戒能牧師応召、台南メソジスト教会は事実上、その働きをやめる。台北メソジスト教会は、藤田一市牧師のあと中森幾之進牧師が1940年4月から就任されている。

中森幾之進牧師の《下へのぼる歌》に「台南に親友戒能団平牧師一家を招いて、南部地区をかれに託した。台南の劉青雲一家がよくめんどうを見てくれた」とあり、「こうした時局に追いつめられたように、日本基督教団台湾教区はそのままにしておいて、台湾の長老教會と日本基督教団とが合同して、一つの宗教法人を作つたのである」。と記してあり、台湾基督教団の総理に上與二郎牧師がなったと書かれている。

この出来事を、前出の本の中で、鄭兒玉さんは次のように書く。「1943年,

上與二郎牧師を長とする日本人キリスト教徒は、植民地支配体制に奉仕するために支配者の代表者として振舞い、二つの長老教会大会に対し、一つの有機的組織を形成するよう圧力を加えた 長老派が、一つの総会に再組織を強制された次の年に、台湾における日本人教会は、いわば良きサマリヤ人よりは、盗賊の側に立ち、日本基督教団台湾教団への合流を強制し、このようにして長老教会の巨大な財産を教団のものとしたのである」。

子供あったけれども、父と共に台南に行ったのは、一体何であったのだろうか。

突然アメリカから手紙が舞いこんだ。台南花園小学校のクラス会をこの5月30日に広島で開くので、50年ぶりに会いたいとの劉革新君からの便りであった。

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