秋山善一に就いて

 

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黑羽夏彥 研究メモ Kuroha Naysuhiko formosanpromenade.blog.jp/archives 掲載 2017年07月11日 

 (一)
これまで何度か記してきたように、私は当初、台南の盲人学校初代校長となった日本人キリスト教徒・秋山珩三という人物に関心を持った。彼が32歳にして惜しくも早逝してしまったところ、その遺稿を兄の秋山善一がまとめて『幽谷集』(中庸堂、2008年)として出版した。本書には善一自身の手によって珩三についての比較的詳しい伝記も収録されているため、人物研究を行うにしてもやりやすいという判断が私にはあった。ただ、本書を読み、また色々と周辺調査をしていくにつれて、秋山善一自身もまた興味深い背景を持っている人物であるように思われてきた。そもそも、秋山珩三がキリスト教に入信したきっかけは兄善一にあるようだし、珩三は兄を頼って台湾へ来た。善一が死んだ弟のためにわざわざ出版の労を取るなど、兄弟同士の深い信頼関係がうかがえる。また、『幽谷集』に追悼文を寄稿している藤井米八郎や呉道源は善一とも関係が深く、むしろ善一を中心にした人的ネットワークの中に珩三も組み込まれていたとも考えられる。つまり、台南においてキリスト教を媒介として日本人、台湾人がつながり合った一つの人的ネットワークの中心人物として、この秋山善一についても調べてみたい。
秋山善一が台湾総督府の官吏を依願辞職した際に提出した履歴書(明治31[1898]年10月14日付、「山梨縣平民秋山善一主記(八級俸)ニ任用ノ件(元臺南縣)」、<明治三十一年 元臺南縣公文類纂永久保存進退第十六卷>、《臺灣總督府檔案》、國史館臺灣文獻館、典藏號00009538054)によると、彼は慶応3(1866)年12月5日、山梨県中巨摩郡南湖村四百六拾九番にて次男として出生した。明治9(1876)年11月28日生まれの弟(五男)秋山珩三とは10歳違いである。善一は明治18(1885)年7月10日に故郷の山梨県南湖小学校訓導(月俸9円)となる。当時の優秀な農村出身青年としては順当な路線と言えようか。明治20(1888)年3月、彼は小学校訓導をやめ、5月14日から山梨県巡査(月俸6円)となった。明治23年12月にいったん巡査をやめたが、翌明治24(1891)年に再び巡査(月俸9円)となり、明治26年には巡査部長に昇進した。明治27年11月には巡査精勤証書を授与されているから、仕事ぶりは評価されていたのだろう。明治28(1895)年6月、農商務省営林主事補(月俸12円)となり、長野大林区署へ出向した。なぜ警察から林業へ方針転換したのかは分からない。
明治29(1896)年3月、営林署を辞職し、陸軍省から台湾総督府宛の辞令を受ける。「三月十一日 拾五圓 巡査心得 秋山善一」「台湾総督府雇員ヲ命ス但巡査心得 月俸(各頭書ノ額)ヲ給ス」(台湾総督府档案『明治二十九年永久保存進退第一巻之一』)。4月1日付で台北県巡査となり、11月12日に台南県への出向を命じられる。この7か月余は台湾勤務のための訓練を受けたのであろうか。12月4日に台南県巡査として正式に着任した(台湾総督府档案「台北縣巡査秋山善一外二名本縣巡査ニ採用ノ件(元臺南縣)」『明治二十九年元臺南縣公文類纂永久保存進退第六巻』)。翌明治30年3月には打狗警察署勤務となったが、10月14日には非職となっている。どのような事情があったのかは分からない。
翌11月には宮内省が管轄する山林の御料局に採用されたが、翌年明3月に宮内省から「善一の採用について差支えはないか?」という問合せがあり、これに対して木下周一鳳山県知事より「非職本縣��部秋山善一御料局技手補に任用支えなし」と電報で返信するといったやり取りが総督府文書に残されている(台湾総督府档案『明治三十一年乙種永久保存進退追加第三巻』)。善一は台湾へ来る直前に長野県の営林署に勤務していたから、林業方面の専門知識を持っていたのかもしれない。いずれにせよ、宮内省側の都合により善一は辞職し、5月からは鳳山県庶務���にて勤務を始める。同6月には鳳山典獄(明治31年6月20日に鳳山県は廃止されたので、台南県雇の身分)に勤務するが、10月13日に再び辞職した。同年中には台南県阿公店辨務署��仁壽上里阿公店街)主記として勤務を始めている(《職員錄甲》716頁)。なお、この明治32(1899)年6月18日に弟の秋山珩三が台南へ来ており、翌明治33年5月4日に台南盲学校校長になっている。
秋山善一は明治33(1900)年10月30日に辞職願を提出し、11月7日に依願退職が認められた(台湾総督府档案「主記秋山善一依願免官ノ件(元臺南縣)」『明治三十三年元臺南縣公文類纂永久保存進退第三十八巻』)。ここでちょっと不思議なのは、大園市蔵編『臺灣人物誌』(台北:谷澤書店、1916年、191頁)によると善一は「明治三十三年八月台南市頂南河街(電話一三七番)に於て海陸回漕業を開始し爾来大阪商船会安平支店専属として拮据業務に精励し今日に至る」と記述されている。退職の時期と合わない。記述のミスなのか、それとも正式に退職する前から事業を始めていたのか。なお、頂南河街は五條港の一つ、南河港に沿った街で、現在の和平街にあたる。
(二)   
明治34(1901)年に善一は事業準備のためか、日本へ一時帰国していたが、3月に妻とその妹を連れて台南へ戻って来た。妻の妹は同年10月に珩三と結婚する。明治35(1902)年6月3日には秋山兄弟の父が死去。
同年12月24日付『臺灣日日新報』には次の記事が掲載されている。「煙草製造と労働者輸入/本島関税率改定以来外国産巻煙草刻煙草の輸入は大に減少したると同時に煙草の耕作に従事する者追々増加し来るの有様にして殊に台南地方は煙草製造は一大産業たるの気運に向ひしも従来本島人には巻煙草刻煙草の製造に堪能なる労働者に乏しく何れも対岸地方漳州泉州地方より雇入れ来る者のみなるが本年の如き旱魃にて葉煙草の生産非常に減少したるより外国葉煙草の輸入品に依り製造しつつある状況なるも何分前陳の如く本島人中には適当なる労働者少なき為め今度台南頂南河街秋山善一氏は右煙草製造に従事せしむる目的にて労働者取締規程に基き備恤規約を設けて清国人五百人を限り労働者請負を其筋へ出願中なりと云ふ」。対岸から労働力を移入する手配師のような仕事も手掛けていたようである。
明治36(1903)年2月27日、秋山善一は保安規則により台湾からの退去が命じられた(三年間台湾在住を禁止)。どうやら臺灣製糖会社と台湾人農民との間で争議が起こった際、台湾人農民側に立って陳情等をしたことが問題視されたらしい。3月11日付『臺灣日日新報』には、「秋山善一の退去猶予/去年末保安規則に由り退去を命ぜられた秋山善一は其営業上已むを得ざる次第を以て退去期日の猶予を出願したるが今回五百圓の保証金納入の条件を以て数十日間猶予許可の指令を受けたり」とある。事業は弟(四男)の秋山胤治にまかせて善一は4月2日には台湾を離れ、神戸へ渡ったようだ。7月、秋山珩三が盲学校視察のため日本へ戻ったとき善一を訪れたほか、呉道源も善一に会いに行っている(『台南府城教會報』1903年8月1日、68頁)。ところが、9月12日付で善一の退去処分は取り消された(台湾総督府档案「台南廰告示第九十一號 秋山善一臺灣在住禁止命令取消ノ件」『明治三十六年永久保存第四十二巻』)。翌日の『臺灣日日新報』は次のように報じている。「退去命令の取消/本年二月頃秋山善一なる者台南廰に於て本島在住禁止を命ぜられたることあり右は当時臺灣製糖会社と蔗農との関係によれるものなりとの風聞ありき然るに其後秋山は改悛の状顕著なりとて昨日台南廰は秋山に対する退去命令を取消たるが退去命令の取消は保安規則施行以来今回を以て嚆矢とするものなりと云ふ」。退去命令の取消とは異例な措置である。どのような背景があったのだろうか。
いずれにせよ、台南に戻った善一は再び精力的に事業活動を展開する。10月24日付『臺灣日日新報』には、台南の秋山善一外三名が旅客貨物運搬の軽便鉄道敷設を計画しているという記事が掲載されている。また、明治38(1905)年8月24日付『臺灣日日新報』の「臺南徳記洋行の紛紜」という記事によると、紛争の当事者である蔡長雲、方振基の双方と親交のあった秋山善一が調停に入ったという。台湾人同士の紛争の調停に呼び出されるほど、台南の商業界で彼の存在感が大きくなっていた様子がうかがわれる。明治39(1906)年1月には、盲学校を辞めて横浜にいた珩三が台南へ戻ってきており、秋山兄弟は台湾人と一緒に「協興公司」を興している。
明治41(1908)年3月3日、弟の珩三が病死。5日には太平境教会で葬儀が執り行われた。同年10月には善一自身が編者となって珩三の遺稿をまとめ、『幽谷集』(中庸堂)として出版。巻末には宣教師ウィリアム・キャンベル、友人代表の藤井米八郎、太平境教会総代として呉道源が追悼文を寄せている。
明治42(1909)年からは製糖事業に着手する。8月24日には苗栗製糖株式会社の設立が許可され、工場は苗栗廰下苗栗一堡後瓏停車場附近に置くという。8人の株主は、千株を保有した秋山善一以外はすべて台湾人で、その中には、呉道源(三千株)、顔振聲(千株)、呉純仁(五百株)といったキリスト教徒医師の名前が見える。同年10月に台南廰勤務を辞めた藤井米八郎が早々に後瓏へ来ており、農業専門家として苗栗製糖の経営に参画していたことは以前の記事で触れた通り。台南における日本人、台湾人の別を超えたキリスト教人脈がこの苗栗製糖を成立させたと言えよう。
 キリスト教徒の劉青雲は、台南で育った幼い頃、近所に住んでいた秋山善一が彼をかわいがってくれて、明治43(1910)年に留学のためはじめて日本へ渡ったとき、善一が連れて行ってくれたと回想している(賴永祥筆錄「「同志社普通學校」:劉青雲憶古談」『壹葉通訊』第42 期、1985年3月)。善一の周囲には台湾人キリスト教徒がよく登場する。
台湾人と共に立ち上げた苗栗製糖会社だが、経営はうまくいかず、結局、南日本製糖株式会社に併合された(臺灣総督府『府報』第3466号、明治45年3月15日)。秋山善一は南日本製糖株式会社の役員に就任した。その後も精力的に事業活動を手掛けていたようで、大正5(1916)年には苗栗において銅鑼湾軽便鉄道合資会社社長として事業計画を進めているし、大正6(1917)年には大正製糖株式会社発起人の一人として名前が出て来る(臺灣総督府『府報』第1380号、大正6年9月19日)。
秋山善一のその後の消息は分からない。彼が台湾へ渡って来てからの経歴を見ると、公務員として勤務していた時期を含め、頻繁に職を変えながら事業活動へ乗り出していった様子がうかがえる。大園市蔵編『臺灣人物誌』では「資性堅実温容にして社交に長じ経営的手腕を有す」と評されており、その社交の範囲は日本人だけでなく台湾人の間にまで広がっていた。中でもキリスト教徒が多いのが目立つ。また、明治36年に台湾からの退去命令が出されたのは、おそらく台湾人農民の側に立って台湾総督府に盾突いたからであろう。そうした面でも台湾人側から信頼されていたようにも推測される。  

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