秋山珩三(1876-1908) 略年譜

 

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黑羽夏彥 研究メモ 年譜は秋山善一編『故秋山珩三遺稿 幽谷集』(東京:中庸堂出版、1908年10月)所収の「故秋山珩三の履歴」を参照して作成した。2016年05月20日 。http://formosanpromenade.blog.jp/archives/60294265.html?1499485732#comment-form

台南で布教活動をしていたウィリアム・キャンベル(William Campbell、甘為霖)は盲人教育に尽力していたことで知られるが、自ら設立した盲人学校が経営難に陥ったため、前台湾総督で文部大臣に就任していた樺山資紀に面会して支援を依頼、快諾した樺山は早速、児玉源太郎・台湾総督に話をつけ、後藤新平・民政局長からただちに盲人学校設立の許可が出された。1900年に台南慈恵院附設教育部(後に台南州立盲唖学校、台湾省立台南盲唖学校等を経て、現在は国立台南大学附属啓聡学校)として発足し、その主任はキャンベルの推挙によって長榮中学の教員をしていた秋山珩三(あきやま こうぞう)が担当することになった。
この秋山珩三という人物については、1.台湾教育史、2.キリスト教を媒介とした台湾人、宣教師、日本人という三者の交流史、3.領台初期に来台した日本人の一例、4.彼個人の精神形成史に着目すれば、明治期の新思潮の影響を受けた知識青年がどのように植民地台湾と向き合おうとしたのか等々、色々なテーマ設定ができると思われるが、さしあたって先行研究が見当たらないので、簡単な年譜をまとめておいた。
1876(明治9)年 山梨県南湖村(現在は甲西市)にて、父・義造、母ゆきの間に五男として出生。父は農民出身だが、村の戸長として一定の地位を持っていた。
1887(明治20)年 尋常小学校を卒業し、南巨摩郡増穂村の北都高等小学校へ通学。
1892(明治25)年 山梨中学校に入学。この頃、父が病に倒れ、借財も重なり、土地をすてて甲府市内へ移住。彼は次兄(おそらく秋山善一)の保護のもと通学できた。しかし、一家がますます困窮したため退学し、山間部の小学校に雇われて自活を始める。
1894(明治27)年 山梨師範学校に入学。この頃、キリスト教へ関心を持っていた次兄の影響で彼も教会に出入りする。ただし、実家は代々、日蓮宗を信奉していたため、とりわけ母から「邪法邪教を信ずる者が現れたから家運が衰えた」と激しく責められた。学校でも同級生や教員の無理解に苦しみ、欠席日数が規定を超えたため、同年9月に停学となる。四兄の在職する小学校に勤める。
1896(明治29)年 4月、師範学校へ復帰。7月、興津の夏季学校に出席。
1897(明治30)年 2月8日、英照皇太后御大葬のとき、忠君愛国とキリスト教、教育勅語とキリスト教といった話題で同級生と激論、同級生や教員から不敬漢と罵られる。脳神経衰弱症により再び停学。ただし、この頃には両親はようやく彼のキリスト教信仰を理解するようになっていた。10月、師範学校を退学して、麻布神学校に入る。なお、この年、秋山善一は鳳山県打狗警察署警部になっている。
1898(明治31)年 3月、台湾へ渡る次兄に付き添う形で甲府へ帰省したが、恩人だった牧師と喧嘩してしまい、その牧師から神学校への推薦を取り消すと言われたため、結局、神学校も退学した。友人の紹介で県内の小学校で教鞭を取るが、欝々とした気持ちで日々を過ごす。
1899(明治32)年 6月18日、次兄を頼って台湾へ渡る。次兄が親しくしていた台湾人の家に住み、台湾語を学ぶ。10月、鳳山公学校の教員となり、その後、英国長老教会付属大学校(史料にはこう書かれているが、おそらく現在の台南神学院と考えられる)の教師となる。なお、この年、秋山善一は台南県阿公店辦務署主記になっている。
1900(明治33)年 キャンベルより推挙されて台南慈恵院教育部主任となる。
1901(明治34)年 日本へ戻っていた次兄が3月に戻ってきて、台南で事業を始める。10月、次兄の義妹と結婚し、台南にてキャンベルの司会のもと挙式。
1902(明治35)年 6月13日、父・義造が永眠。こうした不幸も影響したのか、彼の信仰や思想に変化が生じ、台南教会の長老を辞し、同時に脱会した。時代の新思潮に触れた結果、と秋山善一は記している。
1903(明治36)年 2月、製糖会社が不法行為で農民を圧迫して、土地や原料を買収した事件→次兄は憤慨して総督府に陳情、会社の行為に反抗したため、逆に保安条例違反とされて、三か年の台湾在住禁止処分を受けた。こうした成り行きを予期していた次兄は、一切の事業を三兄に託して4月2日に台湾から退去した。7月、秋山珩三は盲人教育事業観察のため東京、京都、岡山方面へ���張。大阪では博覧��を見学、神戸には次兄がいた。40余日の視察を終え、須磨や舞子にも遊んでから台湾へ戻る。9月、次兄の退去処分が取り消され、台湾へ戻ってきた。
1905(明治38)年 4月、���教教育研究のためアメリカ留学を決める。しかし、台南以来の眼疾が癒���ておらず、身体検査に引っかかって(慢性結膜炎で2か月の治療を要すると診断���れた)乗船が許されず、留学を断念。小西信八の推挙により、ギデオン・ドレイパー夫�����が創立した横浜訓盲院に就職。富山の実家に帰してあった妻子を呼び寄せ、9月初旬から横浜に居を構える。
1906(明治39)年 1月12日、次兄と相談した上で、台湾へ戻って商売を行うことにした。一年たたないうちに、台湾人と共に協興公司という合資会社を立ち上げる。主に砂糖や米国を扱う。
1907(明治40)年 8月、内地取引の視察のため、大阪、神戸、京都、横浜をまわる。次兄に横浜へ転居させ、2人の教友を伴って9月23日に台湾へ戻った。12月28日、病に倒れて入院。
1908(明治41)年 手術を何度も繰り返した末に、3月3日、永眠。3月5日、太平境礼拝堂に葬儀が行われ、北門外の基督教徒墓地に埋葬される。
上記の年譜は秋山善一編『故秋山珩三遺稿 幽谷集』(東京:中庸堂出版、1908年10月)所収の「故秋山珩三の履歴」を参照した。文中の次兄とは、おそらくこの秋山善一自身と思われる。秋山珩三をキリスト教へ導いたのは他ならぬ善一であり、1903年には台湾人農夫の側に立って製糖会社や台湾総督府に抗議し、保安条例違反で退去処分を受けるなど、当時の在台日本人としては異例なタイプであり、興味がひかれる。
 
 

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