青山学院阿部義宗院長

 

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青山学院資料センタ一所蔵阿部義宗関係資料紹介気賀健生 Wesley Hall News No.89  2006.09.20  p.12-13 


青山学院大学《AGUニューズ》No20[2003年12月~2004年2月号]阿部義宗(1886.12.03- 1980.03.01)は青山学院第6代院長(1933~1939年在任)でした。


伯父である本多庸一(第2代院長)の創立した弘前教会で受洗し、1912(明治45)年に青山学院神学科卒業後、アメリカ・カナダに留学。1915(大正4)年、帰国した阿部は母校に招かれ、以来、24年間を青山学院と共に歩みました。教師として英語、社会学、神学を教えたほか、青山学院教会牧師、中学部部長、神学部部長を歴任。中学部部長時代には、第5代院長石坂正信と力を合わせて、関東大震災後の青山学院復興に奔走しました。第2次世界大戦前夜の暗 い世相の中の1933(昭和8)年、第6代院長に就任し、積極的に各部の充実を図っていきました。特に初等教育を重視し、青山学院緑岡小学校・幼稚園を開設。キリスト教主義による一貫教育の土台を築きました。1939(昭和14)年、日本メソジスト教会監督に選任され院長を退任しましたが、その後も理事・ 評議員として青山学院の経営に関わりました。また、1941(昭和16)年夏、日本キリスト教界を代表して渡米し、戦争回避に努力するなど、平和のために尽力しています。戦後は政治、社会、教育の各界で活躍、一牧師としての使命を全うし、1980(昭和55)年、その輝かしい生涯を終えました

 阿部義宗は1886年弘前に生れた。伯父本多庸一(青山学院第2代院長)の創立した弘前教会に於て伝道者としての召命をうけ、青山学院・ドゥルー神学校に学んで、母校に招かれ、1915年から1939年に至る24年間を青山学院と共に歩んだ。一教師として英語、社会学、神学を教え、キリスト教社会学の論文を発表し、青山学院��会牧師、学生寮舎監をつとめ、中学部長、神学部長、院長(第6代)を歴任し、理事・評議員として経営の責任を負った。阿部院長の6年間は第2次世界大戦の前夜であり、226事件、日華戦争勃発、国家総動員法成立が相次いだ時��であった。滔々たる国家主義の波から如何にしてキリスト教主義学校を護るか。それが阿部院長に��えられた重荷であった。信仰と政���、教会と社会の接点に身を挺し、避けて通れぬ条件交渉を、国家権力と社会を 相手に重ねて行くという、苦悩に満ちた重荷であった。そしてそれは1939年以後彼が日本メソジスト教会監督となって、さらに大きな重荷となっていった。然し阿部は常に明るく朗らかであった。暗い思想の谷間の時代に、青山学院の教職員・学生は、阿部院長の思いやりに満ちた柔和な笑顔に守られて、学び、暮し ていったのであった。

日米開戦前夜の1941年夏、阿部は日本キリスト教界を代表してアメリカに渡り、平和を説いて戦争回避に努力し、中国に渡って日本軍の暴虐から身を挺して中国の教会を護り、戦後は政治、社会、教育の各界に力を尽した。

1953年、67歳の阿部は一切の公職を退き、会衆僅か13人の伝道所で開拓伝道を開始した。それは自ら語ったように彼の「一生で本当に神に感謝してやった最大の仕事」であった。そして伝道者阿部義宗はその念願通り、「一牧師として」1980年、その93年の生涯を全うしたのである。

http://www.cc.aoyama.ac.jp/user/agcac/people/abe1.html

 

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