思い出 An kong劉瑞山 と和源

 

 

劉逸民記 2015年11月1日 附他畫的「和源庭園 見取圖」。

  85歳の今になって振り返ってみると、物心ついたころから、祖父 (劉瑞山) を見送った1947年までの間、和源は我々五人兄弟を含めた劉家の子供たち全員にとって、まさに楽園であった。何かというと、寄っては騒ぎ、一人一人がそれぞれの役どころを演じる中で、どんな場合にも,中心には祖父がいて、きちんとネジを締めていてくれたのだ。祖父は特別に厳しいと言うわけではないのだが、寡黙にして誠実で内外の信頼と尊敬を一身に集めていた人だった。我々は敬意、と親愛の気持ちを込めて、阿公( An kong ) と呼んでいた。 記憶をたどって配置図を描き起こしてみると、和源の建物のそこここに、さらには緑濃い数々の樹木の周りに、そして広い庭のあちらこちらに、元気だったころの阿公の姿、阿公の顔が見えてきて、その折々の阿公 の抑えめの口調から恐い時の声色までが思い出されるのだ。   
  阿公は、和源の”店口” の廊下に七輪を置いて、土鍋で牛肚湯を作るのを楽しみにしていた。母屋の設備のいい台所を使うでもなく、人の手を借りるでもない。肉屋の主人が、月に一度か二度、材料の牛肚持参であらわれる、と、次は 阿公 直々のお出ましだ。丁寧な下準備から調理、火加減、味見すべて一人、手出し無用、独立独行。時間をかけて、じっくり煮込む。阿公 の牛肚湯料理の腕前は自他共にみとめるプロ級だ。出来上がると、男衆を呼んで、母屋の食堂へ運んでもらう。 ”阿公 牛肚湯を作る” の場面を思い起こすとき、邪魔にならないようにと、おとなしく傍にしゃがんでじっと見ている私自身の姿も見えてくるのである。 私は阿公の傍にいるのが好きだった、と見える。子供のことでもあり、特にこれといった話をするわけでもないのだが、傍にいて黙って阿公のすることを見ていたらしい。肉屋のほかにも顔見知りの魚屋が安平旧港のムツゴロウ(ハゼ)が手に入ったからと時々やってきた。阿公はムツゴロウを一尾一尾捌いて、しっかり下拵えをして美味なるスープを作るのだった。 和源には、よく物売りが入ってきて、紅蓮霧の木陰などに即席の店開きをした。賣豆花 (boe tau-hue)や賣發糕 (boe fuat-kue) はことに人気があって、呼び声を聞きつけては母屋からも庭のあちこちからも子供たちが手に手に茶碗を持って集まってくる。薄く掬いとった豆花に蜜をかけてもらって、みんなでがやがやペロリと食べたまではいいのだが、さて、その後がよろしくない。 豆花売りの帰り際には子供たちが声を合わせて ”豆花捙倒擔、豆花捙倒擔” (tau-hue tshiah too tan,tau-hue tshiah too tan)の大合唱で見送ったっりしたのだ。美味いものを食べさせてもらった、というのに全くやんちゃな劉家の孫たちであった。     
  阿公の辦事室は子供が安易に出入りするところではない、と思っていた。阿公不在の折はもちろんのこと、阿公が何やら忙しそうにしている時は子供ながらも入室は遠慮していたのだ。国民学校に入学して間もないころ、阿公が辦事室でくつろいでいるのを見て、部屋に入っておねだりをしたことがある。 なぜか”龍銀”(明治時代の一円銀貨)が欲しかったのだ。阿公は優しい顔をして、机の引き出しから一枚取り出して渡してくれた。阿公におねだりをしたのは後にも先にもこの一回きり、この銀貨一枚きりである。大事にしていたはずの阿公の一円銀貨はその後いつの間にか行方不明になってしまい、時折思い出すと胸の奥にちくりと小さな痛みが走るのである。ちなみに、阿公は愛煙家で、もっぱら水煙管(水薫吹ーtsui-hun-tshue)を愛好していた。仕事の合間に一息入れるとき、辦事室でくつろぐとき、または庭で夕涼みのときなどに一服”点ける”のだ。”点ける”とあえて言うのだが、火種を確保するために、昔ながらの”竹紙” (焼銀紙用の紙?)で、太めのこより状のものを作り、火を点けておく、次にタバコの葉をパイプに詰めるとその”竹紙こより”に息を吹きかけて火を起こす、ぼっと火が点ったらおもむろにタバコに火を移す、という按配。和源の年若い店員が竹紙をこよりに仕立てては専用の筒に入れて阿公が常時使えるようにしてあった。阿公が愛用の籐椅子にゆったりと腰かけて、左手に水薫吹を、右手に”こより”を持ってタバコに火を点ける。一連の仕草は子供心にも優雅なものに映ったに違いない。火種に眠っている火を起こすのが面白そうで、自分も試してしてみたくて仕方がなかった私は、阿公がしばらく座を外したすきに、筒から ”こより” をちょいと抜いて、見よう見まねで口をすぼめてフッと吹いてみた。 すると、”こより”の先がボッと赤くなって、見事に火が点ったので大いに気をよくしたものだ。   
  私はどうやら和源の隅から隅まで”探険”を重ねていたらしい。客廳の奥の南側の壁には歴代の台湾総督の厳めしい顔写真がずらりと並んでいて、一方、西側の壁には子供の腕で一抱えもありそうなカブトガニの剥製が衛兵よろしくでんと構えていた。前廳の東側は店員用事務室で大番頭の郭註氏(註叔と呼ばれていた)ほか常に二、三人が仕事をしていた。その奥の事務室用の倉庫が宝の山だということを発見して、わくわくしたのを思い出す。新聞、雑誌の類、のほかに大量の古い手紙の束。当時、ようやく切手というものに興味を持ち始めたばかりの私は明治、大正、昭和の切手の種類の多さに圧倒されてしまった。註叔に頼んで数枚を古封筒から剥がしてもらったこと、きれいなトンボの切手が嬉しくて、後々まで大切にしていたことなど、和源での切手との出会いも忘れがたい。   
  阿公 は学校教育を受けていなかったというが、ローマ字は自由自在だったようだ。おそらく教会で学んだのではないかと推察するのだが、阿公の台湾語のローマ字表記はどこに出しても恥ずかしくない立派なものだ。帳簿をつけているところをたまたま見かけたのだが、丁寧に、そして整然と書かれていて、まるでイギリス人の手になるものと見紛うほどの美しさで、驚いた覚えがある。その帳簿は現在行方知れずで、できれば今一度しっかり見てみたいと思うものである。三叔子祥が学生のころに、阿公 から送られた手紙が唯一残ったものであろうか(劉克全編著:”永遠的劉瑞山”に収録)。これは劉家の宝と言えよう。   
  わが劉家には 阿公を中心とした年間二大行事があった。その一は、阿公 の誕生日。当日は一族郎党がこぞってお祝に駆けつける。主役の 阿公 は朝、嫁の作った縁起物の鳩の卵の甘煮を食べて、その後、来客のお祝を受けることになる。我々子供たち一連隊は午前中、早いうちにお祝を申し述べる。 ”阿公,生日恭喜,添福壽老康健 (An kong、sinjit kiong hi, thiam hok siu lau khong kian )。幼いころはこの文言がうまく言えず、幾度も声に出して唱えてから出向いたのだった。お祝の挨拶がすむと一人一人に紅包を下さる。みんなにこにこ大喜びだ。来客は台北、台中、屏東などの嫁ぎ先から、家族ぐるみで里帰りの三姑、四姑たちをはじめ親戚縁者あまた。幼い従兄弟、従姉妹たちを迎えて子供の声が溢れる中、ひとしきりお祝の言葉で盛り上がると、次はお互いに久闊を叙するという賑やかさだ。夜は夜で、大宴会になる。萬川(?)や、”東菜市口”の何とかいう料理屋から ”師傅”が”子分”を数人引き連れてやってくる。 母屋の台所はたちまち水やら火やら、大鍋小鍋、大皿小皿でごった返す。テーブルが十卓ぐらいは並べられただろうか。子供たちはこの雰囲気が楽しくて、うきうきと走り回っていた。 夕食の後には全員が一堂に会して琩のくじ引きが始まる。くじ引きの準備,司会は青雲パパの役目だ。それぞれ籤の番号を引きあてて、自分の番を待つ。番が来ると、何やら面白い文言が読み上げられて、小さな景品が当たる、という仕組みだ。ある年のこと、”ビンソン(幼少のころ、パパは私をこう呼んでいた)、お前の籤番号はこれだ” と会の始まる前に籤を渡された。おかしいなとは思った。自分の番が来た。文言は ”福音の声”、景品はなんと我が家の飾り棚に鎮座している真鍮の鐘であった。何か曰くのあるもので、これを誰かに持っていかれても困る、と、いって ”福音の声” という文言に見合う品として鐘ならピッタリだ、是非使いたい、と思ったパパの苦肉の策であったらしい。また別の時に ” toa lam pha 遊世界”、という文言で会場は大爆笑、なんと萬金油があたった。参加者が多いので、抽選会係は景品作りにさぞかし苦労したことだろう。   
  今一つの年中行事は、新年の挨拶で、この時も一人ずつ 阿公 の前に進み出て、”An kong、 新年恭喜、添福壽 老康健” と申し上げ、一礼しては紅包をいただくのであった。 ”新年恭喜” の句は相手を選ばないが、”添福壽 老康健”はただ ひとり 阿公 だけに申し上げる挨拶なのだと心得ていた。   
  私は今でも時に和源の建物や広い庭園の夢をみることがある。戦後間もなくここは更地にされてしまった。在りし日の阿公の和源は今はもう脳に刻み込まれた記憶に頼るしかない。 何時かじっくり描き起こしてみようと思いつつも、和源を離れて、台北へ、さらには札幌へ、東京へ、と60余年もの長きにわたって流浪しているうちに、記憶はすっかり薄れてしまったようだ。いざ、描き出してみると、あやふやな個所も多々あることに我ながら驚いた。   
  和源の庭園にあった樹木についてはほぼ百パーセント覚えている。木登りはお手の物で、どの木にはどう登るのか、攻略法はすべて把握していた。登りやすいのは、まずは紅白の蓮霧に始まり、蘋婆、釋迦、龍眼、黄蘗、楊桃など。玉蘭は折れやすいので要注意、枇杷はよくしなるのだが枝が詰まっていて登りにくかった。”店口”の中ほどにあった紅蓮霧の老大木は毎年たくさんの実をつけるのだが、別に果実目当てに登るわけではない、ただひたすら高きを目指して木登りがしたかったのだ。しかし、阿公は子供の木登りを非常に嫌った。 "m than pe chhiua, gina to ai o shiu " ( 木登りはするな、子供は泳ぎを覚えろ)。木登りは落ちて怪我をするのが関の山、泳ぎはいざという時役に立つ、というのが阿公の持論であった。にも拘わらず、われわれは、阿公の目を盗んでは、あの木、この木とよじ登っていたのだった。日曜日の午前中、阿公がまだ教会にいる間は絶好のチャンスだ。篤信、徳勇たちを見張りに立てて、素早く樹上を目指す。清水町と寿町の角に、阿公の姿が現れるや ”空襲警報!空襲警報!”と叫んでもらい、いち早く地上に降りては何食わぬ顔を決めこんでいた。今思えばあれは阿公とスリル満点の”かくれんぼ”を楽しんでいたような気がする。一度、たまたま別ルートで帰宅した阿公に現場を押さえられて、鞭をかざして追いかけられた。 阿公は孫脅しとも思える竹鞭をよく手にしていて、 子供たちは何故かそれを "senー sen" と呼んで敬遠していたのだが、その”senーsen"は常に空を切るばかりで、孫たちに向かって振り下ろされることはかつて一度もなかった。 阿公に追いかけられた私は、一目散に逃げ隠れたに違いない。 ”cheng-tsu a, lin Ek-bin ko tsai pe chhiua lah" (貞子さんよ、あんたとこの逸民がまた木に登ったよ)と母に言いつけられて、こっぴどく叱られた。  阿公に禁じられていたのは木登りともう一つ " m than khuah lan phua thsa " (他人の薪割に近づくな)であった。身に危険が及ぶことを極力避けるよう、子供たちに教えてくれたありがたい禁止令であったのだ。   
  台南では、夕暮れ時ともなると蝙蝠の大群が空を覆う。ある時、和源の庭の玉蘭の木に紅蝙蝠がぶら下がっているのを発見。木登り名人としては黙って見過ごすわけにはいかない、早速勇んで木に登ると、難なく素手で捕獲した、そこまではよかったのだが、よくよく見ればネズミに輪をかけた悪相。獰猛そうな目つきで、牙をむいて騒ぎ立てる。気持ちの悪いことこの上ない。さすがに慌てて即時追放にしてやった。この話はその後も誰にも話すことはなかった。阿公がそうと知ったら、どんなに怒ったことだろう。薄暗くなった庭でなんと危ないことを、とお叱りの声が聞こえてくるようだ。   
  和源については、私にとって生涯忘れることのできない事がある。   
  中学二年のころ、第二次世界大戦はますます激しく、”敵機襲来” に備えて、防空壕の準備は必須であった。あちこちの空き地に壕が掘られた。我が家(青雲一家)の庭にはセメントで固めたやや頑丈なものが築かれた。和源の庭にも壕を、ということで蓮霧の木の下あたりにひとつ、身の丈ほどの深さに穴を掘って、上に板をかぶせ、さらにその上を土で覆った簡易型のものを作った。日本の敗色が日に日に濃くなってきたころ、アメリカ軍の空襲は日に日に激しくなっていた。いよいよ危うしということで、和源も母屋も疎開やむなく、終には誰もいなくなって、がらんとした敷地内には大番頭の註叔が一人で留守を預かっていた。親戚でもあり、私たちは註叔と呼んで親しんでいた。その頃には青雲一家も新市へ疎開。こちらの留守番はかくいう逸民一人。 16歳に満たないというので学徒出陣は免れたものの日々登校しては、軍の御用聞きを拝命。同学年で残ったのは私を含めて15歳5人であった。台南でも米軍爆撃機B24が連日午前11時から約一時間、数波にわけて、爆弾を投下していくようになった。   
  ある日のこと、例によって、昼前の第一波の空襲が過ぎて、私は自宅と和源、母屋の建物などの見回りに行ってみた。幸いどちらも無疵で、事なきを得た。註叔は一人で和源の簡易防空壕に身を隠していた。それを見た私は、私も一人で寂しいので、と我が家の壕に ”お招き” して、一緒した。そのすぐ後に、当日第二波の爆弾投下があったのだが、それは今までにない凄まじい炸裂音と地響きをもたらした大空襲だったのだ。15歳の少年は、まさに生きた心地がしなかった。米軍機が飛び去って辺りがいくらか静まるのを待って、私は再び被害の有無を確かめに行き、愕然とした。なんと、つい先ほどまで註叔の入っていた蓮霧の木の下の防空壕は跡形もなく、そこは直径およそ10メートル余りもあろうかと思える大きなすり鉢状の穴と化していたのだ。選りによって、壕に直撃弾が落ちたのだ。註叔がそのままその場にとどまっていたら、と思うと、心底ぞっとした。   
  すぐ近くの線路わきの民家に不発弾があると聞きつけ、恐いもの見たさで早速直行。一体どれ位の長さなのか、直径1メートルぐらいもありそうな大きな奴が信管を上に玄関の土間にすっぽりと突き刺さっていた。これが噂の500キロ爆弾だという声を耳にした。和源に落とされたのも同じ型のものだったのだ。和源の場合、壕は言うに及ばず、回りの建物も爆風をもろに受けて、ガラスは粉々だし、壁は崩れるは、天井は抜け落ちるはで被害甚大であった。和源の穏やかな佇まいも、阿公を中心にして幸せに過ごしていた劉家の暮らしも一瞬にして瓦解してしまったのだ。大門を入ってすぐ左手にあった鳩小屋は丸ごと吹っ飛んで、阿公が飼っていた鳩のうち、なんとか生き延びた10羽ほどが行き場を失って何日かあたりを徘徊していたのだがそのうちみんな何所かへ行ってしまった。阿公は疎開に際してたくさん飼っていた鳩の世話を誰かに頼んでいたらしいが、直撃弾を受けたのでははひとたまりもない。 鳩たちもまた和源での平和な日々に否も応もなく句点を打たれてしまったのである。   
  後に、この一部始終を改造兄に話したことがある。兄は、危機一髪で註叔の命を救い得たことに感動してか、涙ぐんで、 ”よかったなー!” と何度もつぶやいた。 阿公、阿媽、父、母、みな疎開先で不便をしのぎ、苦労もあったのだが、和源の直撃弾を思えば、疎開はやはり正解だったのだ。    
劉逸民畫的「和源庭園 見取圖」