頼劉慶理「日文原作」;この文は林俊育長老によって漢訳され、《太平洋時報》1999年10月14日
p.8 に登載されました「漢訳」
《愛の点字図書館長─全盲をのりこえて日本点字図書館を作った本間一夫》 池田 澄子文 田代 三善絵 偕成社1994年2月
(わたしのノンフィクション310
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池田澄子著「愛の点字図書館長」(東京偕成社,1994年初版)は、全盲をのりこえて日本点字図書館をつくった本間一夫の生涯をつずった本です。
本間一夫於1915年出生在北海道の裕福な家庭に生まれました。祖父本間泰蔵は呉服、雑貨、酒、そして漁業、回船業を手びろく経営しておりました。一夫ゆくゆくは祖父の経営する事業をうけつぎ、将来を約束されていました。ところが5才の時、脳膜炎にかかつたのが原因で全盲になりました。暗黒の谷底につきおとされた様なことでした。祈祷師がよい、転地療養や医者がよいと歩きましたが、再び目をひらかせることは出来ませんでした。
一夫が力を落としている時に、祖父は「かわいそうになあ、だが一夫、くじけるのではないぞ、たとえ目はみえなくても、お前にしか出来ないことがきっとあるはずだ、お前はそれをやりとげるのだよ、けっしてくじけるのではないぞ!」とはげました。一夫にしか出来ないことがある祖父の言葉はどれほど一夫に起き上がらせる気力をあたえたことでせうか。
一夫は13才で盲学校に入学、そこで点字を学び、点字をとおして読み書き出来る喜びを知りました。一夫は点字の本をみつけては何度も何度もくりかえして読みました。でも、かんじんの読む本が少ないのです、もっと本を読みたい、もっと点字の本があればよい、盲人が目の見える人と同じぐらい社会で生きていくのには、もっと点字の本がなければなりません。何時か盲人のために点字図書館をつくることが一夫の夢となり、やがてはっきりした目標になりました。
好学の一夫は困難をのりこえて関西学院大学(専門部英文科)を卒業、在学中洗礼をうけてクリスチヤンになりました。1940年、一夫25才の時、住んでいた東京豊島区の小さな借家に念願の点字図書館をはじめました。約700冊の点字の本をおさめ、看板には「日本盲人図書館」と書かれていました。点字の本をふやすために、世間によびかけて点訳奉仕者の協力を得られたことは幸いなことでした。翌年母の用意してくれた高田馬場の土地に二階だての図書館をかねた家が出来上がりました。
二次世界大戦の間、空襲のつずく日日にも点字本の貸し出しや点訳奉仕の仕事がつずけられましたが、切角改建したばかりの図書館は焼けてしまい、再建の出発に「日本点字図書館」と名を改めました。復興は容易ではありませんでしたが、1954年に厚生省から予算が出て、二階だての図書館が建てられ、翌年四階だての書庫も加えられ、更に「声のライブラリイ」と称して録音テープの仕事も加わりました。
今日「日本点字図書館」は理事長本間一夫の下、職員70名、所属点訳奉仕者350名、朗読奉仕者180名、登録読者数は一万名を越え、年間貸し出し数は点字図書約6万冊、録音テープ約65万巻というすばらしい成績です。
本間一夫が失明という痛手にあわなかつたとすれば、彼一人の幸福な生活はあつたことでせう、しかし彼の失明を通して日本点字図書館がつくられ、全国の盲人に希望の光をあたえた事実は、神の恵みと愛はただ目先きだけのことでなく、先の先将来の事を考えられる神であられることを知ることが出来ます。神の摂理の深さ、広さ,高さを改めて心から感ずるものであり、感謝の気持ちに満たされます。
本書の漢訳を考えている林俊育長老は、台北市視障音楽文教基金会を創立し、理事長であった方であり、現在拍得麗文教基金会の執行長をしておられます。また台北市にある台湾基督長老教会双連教会1988年の末、台北市盲朋友聯誼会を成立させ、ついで西羅亜詩班の発足、盲人杖の普及、慕光叢書の出版と、全面的に盲人のための運動を進められていることに感動を覚えます。、