ある湾生の戦後


デイビッド・ルー (David Lu 盧焜熙

林栄勲君の思い出を含めて


終戦の詔勅をぼんやりとして聞いていて、実感が出たのはそれが終わって、田中慶治君が「これから基隆に帰れるね」と微笑みをまぜて言った時だった。九月になって学校が始まるとその田中君も諸兄も引き揚げ準備で忙しく、一人去り二人去って、果てには台湾籍の私達だけが取り残され、学園はすっかり淋しくなってしまった。私たちにとって幸いだったのは、日本籍の先生方が留用という形で継続教鞭を取っておられたことで、その中には犬養先生の万葉集の講義も含まれていた。哲学のクラスは台大の淡野安太郎先生が担当されていた。淡野先生はフランス留学の経験をもっておられ、ベルグソン哲学のよき理解者で、肩のこらない、哲学を楽しませる授業だった。課外活動として、戦前からあったキリスト教青年会というのを復活させ、石本先生や斉藤先生の肝いりで、本館三階の会議室を使って会合を時々開いた。屋上に上がって、賛美歌を歌ったりするなど、忘れ難い思い出が残っている。

 中国語の授業もあった。北京官話で、台湾語の八声とは違って四声しかない。発音が違うので、初歩からすべてやり直さなければならなかった。教師が二三度変わった。ある時恰幅のいい五十近くの教師が現れ、黒板に「我是真的北京人」と書いて自己紹介をした。他の教師は皆だめだという態度があって、好感がもてなかった。この先生が教室を離れると林栄勲君がすぐさま黒板に北京原人と「原」の字を加え、Sinanthropus pekinensisと注をつけ、満場の喝采を浴びた。その後、この先生が現れると学生達がくすくす笑い出すので、彼は二三週間で辞めてしまった。私達が快哉と叫んだのは勿論のことで、台高生の面目がそこに躍如としていた。しかし好事魔多しと言うか、このような情景は長続きしなかった。

 総督府立台北高校が中国政府に接収されて台湾省立台北高中となっても、いい授業が続く限り、学校の名前にはあまり気をとめなかった。それが完全な降格だということに気付いたのは昭和二一年の一月、台大に進学したいものは、夏に受験をしなければならない、という通知を受けた時のことである。だだし、台大予科生は無試験で希望学部に編入されるという言葉には皆憤慨した。試験は勿論中国語で行われる。それには誰も自信がなく、物議騒然の討論が続いた。

 そのころ林栄勲君が学生運動の指導者として台頭した。「中国の時代となったのに、日本時代に任命された級長が(それは私だったが、閑職にすぎなかった)継続級長を勤めているのはおかしい、だから民主的に皆で級長を選ぼう」といって立候補し、文科の級長となり、そのタイトルを使って当局との折衝を始めた。台大予科生が無試験で入学できるなら、何故同じ権利を台北高校生に与えないのか、というのが私達の争点だったが、「お前達は高中生に過ぎない」という剣もほろろの答えがよくあった。いっそのこと日本に行き、日本の大学の受験をしよう、引き揚げられる諸兄が羨ましいと思ったことが何度あったか知れない。

私の日本文化に対する憧憬の念を更に深めた一つに、露天市で引き揚げられる方々が売っていた蔵書の質のよさがあった。随分買い求めたもので、岩波の『カント全集』を筆頭に、漱石などの文豪の全集、カッセルのラテン語、ドイツ語、フランス語辞典や、ルソーの『民約論』原書の初版などが集まった。台大経済学部の楠井先生から『内村鑑三全集』をいただき、ブリタニカの第14版をも入手し、そういう本を目の前にして、戦前日本文化の幅の広さ深さやよさをしみじみと味わった。中国から旧新高堂に輸入された書籍には同様の親しみが持てなかった。 

 日本人の先生方はご自身の留用が解約される危険を冒しながら、随分私達のために奔走し、台北高校はただの高中ではなく、予科よりもすぐれた学校だということを証明する連名の陳情書を何通か作って下さった。台大との兼任の先生方は台大当局と折衝を重ねた。犬養先生が毛筆で丹念に浄書された陳情書を林君と一緒に杭立武さんだったと思うが、国民政府の要人のところに持っていったことがある。杭さんは後に教育部長(大臣)となった教育行政の大御所、「礼儀正しく、アポイントメントを取ってから」とお叱りを受けた。不本意ながら会ってくれた彼ではあったが、犬養先生の達筆をみて、「立派な学者でいい先生だ」と機嫌を直し、「よく考えておく」と約束してくれた。三週間ほどたって三月末に、台大から「無試験入学を許可する」という通告があった。この嵐のあとの最後の学期についての記憶はあまりない。家兄からの音信で、彼を含めた、日本から帰還した、二三の台高の先輩が法学などの科目を担当していたことを思い出した。なんとかして最後まで台高の伝統を生かしていこうとした石本先生のご配慮によったものである。九月に台大の門をくぐり、私達の台北高校時代は終わりを告げた。

 台大に入って、林栄勲君が大稲程の自宅から文人画に出てくるような長い中国風の衣服を身に着けて自転車で通学する姿を往々みかけた。あの長く垂れる衣服であの長い路を自転車で来るのは難しい。それに一向頓着せず、林君はそれを「僕は中国人なんだよ」という自己表現の手法として使っていた。Identity Crisisに悩まされていた同級生たちから見れば、彼は異色の存在だったが、学内では名物男となり、学生自治会の会長に選ばれた。自治会で彼は「私の母校台北高校」を廃校にした中国政府の教育政策を徹底的に批判した。翌年二・二八事件が起こった時、彼は随分逃げ回らなければならなかった。その後、医学部の学生数名が大陸と文通し、通敵という疑惑で逮捕される事件がおこった。自治会の会長として、かれは教授たちの間を駆け回って署名を求め、その学生達の釈放を求めようとした。誰一人署名するのはなく、林君は意を決して自分ひとりの名前で嘆願書をだした。それが祟って彼自身も逮捕された。彼が安全を保つことが出来たのは、傳斯年大学総長が職をとして当局にとりなしてくれたためで、彼は終生その恩義を忘れなかった。

 傳斯年先生は中国考古学の泰斗で、甲骨関係の優れた多くの著作があった。中国の近代化を促進させた五・四運動の指導者の一人だった彼は学生運動のよき理解者でもあった。林君と私がアメリカに来た後、白話(口語)運動を提唱した胡適博士に会うことができたのも、傳斯年先生のご紹介によるものだった。一体に充実していた台北高校の教育を受けたあと、台大の教育は不毛に近いと在学中豪語していたものの、振り返ってみると傳斯年先生との出会いなど、得がたい経験もいろいろとあった。フランス語を教えてくれた商務印書館編集局長の黎先生や、ラテン語の初歩知識を与えてくれた神父さんなどの姿が懐かしく思い出される。台高先輩の呉守禮さんの中国語のクラスも堂に入ったものだった。そういうクラスでは林君と机を並べていたが、彼が政治を、私が経済を専攻として選ぶと、あう機会はすくなくなってしまった。

林君は熱血漢で、直情径行という面が強かった。中国の衣服を着用して、文人気取りで振舞っていた彼は、中国をロマン化していた。その中国が彼の愛していた台北高校を廃校にし、二・二八事件で人民に圧迫を加えると、かれは堣られたという感じを持ち、それが彼を政治運動に走らさせたのではないかと思う。私がアメリカに来たのが昭和二五年で、林君は二年後にやってきた。アメリカに来た当初、林君はアメリカのすべての制度に懐疑をもち、とくにアメリカ社会の底流にあるキリスト教は知識人の立場から許容できないと強く主張していた。その彼がキリスト教徒になった経緯は第一次真洞会で報告したが、面白いので要約しておく。「聖書も読まず、キリスト教のことを知らないくせに、それを批判するのはおかしい」と彼に言ったら、彼は黙ってなんとも言わなかった。三ヶ月ほどたって、洗礼をうけるから立ち会ってくれないかという電話があった。創世記から啓示録まで、新旧約聖書を二度読み通し、これほど理知的に信じられるものはない、というのが彼の言い分だった。予防注射だったと思うが、二人とも医者の所に行く用があった。彼は「僕割礼をうけたよ」といった。割礼はユダヤ教では、神との契約のしるしとして求められているが、キリスト教では洗礼がそれに代わり、求められていない。しかし、林君は旧約の世界をも、新約の世界をも身を持って体験しようとした。彼は中途半端なものに満足せず、常に所信を貫いていこうとした偽りのない国士的な存在だった。台湾が完全に民主化した今日、彼が生きていればとつぐつぐ思うものである。

 こういう回顧談を書き出して、ふと「月日は百代の過客にして」と言う言葉を思い出した。ドナルト・キーンさんを自宅にお招きして朝食を一緒にしたことがある。その時の話題は『奥の細道』で、「日本の自然を直接経験しないで、芭蕉に親しむことが出来ますか」と聞いたら、「出来ますよ」と彼は答え、ご自身の経験や芭蕉とシェークスピアの言葉のあやと普遍性をとうとうと述べた。塩見先生にその件で注意されていなければ、そのような会話はなかっただろうと思うと、何年たっても尋常科の経験は常に私の生涯を左右しているのだという感じを強めた。